遊びは誰もが経験する。しかし、その遊びの体験は必ずと言っても同じものとなり得ない。遊ぶ相手が違ったら、場所が変わっていたら、経験に差があったら、会話のしかたが違ったら、その時点で近しいが離れた遊びとなる。要は全く同じ遊びを同時に経験するなんて、現実的にアリエナイ。だからこそ、それぞれがそれぞれの遊びの集合体や総称に落とし込んで「○○遊び」と呼んでいる。
「○○遊び」と枠が決まってしまうと、遊びに定義やルールが発生してしまう。その枠組みから外れると、「それは○○遊びから外れているよ」と除け者扱いにされてしまう。全く困ったものである。今回は①遊びの枠組みについて考察する。
既存の遊びに、ちょっとしたルールを加えると面白くなることもある。しかし、それは当事者視点で、広い遊びの枠から見るとただ許容範囲内だっただけの話である。どういうことかというと、冒頭で紹介したように、「それぞれがそれぞれの遊びの集合体や総称に落とし込んで『○○遊び』と」言われているため、ちょっとしたルールを加えたものがローカル・ルールとして正常に機能しているのであれば、遊びとしての機能が壊れていないのである。
では、どこで遊びが崩れてしまうのか。遊びの成立条件が人数であったり、遊び方が複雑な工程で伝達できるスキルがなかったりすると、遊びが移り変わるのかもしれない(橋本, 2013)。橋本(2013)は、就学前児童の繰り返し展開される「病院ごっこ」に関心を持ち、参加者とその構造の変化について観察したものを考察し、論文にしている。園内にはたくさんの遊びや玩具があるにもかかわらず、部屋の一室で繰り返し病院の受付、待合室、診断室といった区画を作っていた。その論文では、病院から帰った後の家遊びに関心が移り、次第に病院遊びの役割や構造が縮小された。要するに、流行による遊びの廃りともいえようか。
また、遊びの中でゲームバランスが崩壊したときにも、遊びが崩れてしまう。鬼ごっこの無敵のバリアやアプリゲームのソシャゲ(ソーシャルゲーム)においてみられる現象である。最初はゲームバランスが整っていたが、要素やギミックを攻略するために、新しいキャラクターが必要になることが多い。攻略要素でキャラクターが増えるため、飽きはしないのかもしれないが、次々にルールの上書きや追加の要素が増えていくため、途中からの参加者が入りにくくなってしまうというデメリットも発生する。限定的なキャラクターが手持ちにいなければ攻略不能になってしまうと、ゲーム内でカーストが発生する(そのキャラクターを所持しているか否か)。調整が入らない限り、ゲーム人口が少なくなり、サービス終了の足音が聞こえてくるのである。
要するに、遊びは自由そうに見えて、様々な制約が発生している。流行による遊びの廃りやゲームバランスの崩壊は個人の遊びにおいても発生するのか。同じ遊びが好きな子どもが別の遊びに関心を持ち始める(流行による遊びの廃り)が、ゲームバランスの崩壊は起こりにくい。それは、一人で遊んでいる分には自分が操作するキャラクターを意のままに操作可能(結果の操作も可能)だからである。ゲームバランスの崩壊は自分とは違う他者(ゲームであれば運営)が参加して感じうる主観的な認識なのかもしれない。


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